THE WILLPOWER

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絶望を希望へ その1

 今回は自分語りの記事です。匿名と言えどかなり恥ずかしいのですが、ぼく自身の失敗や挫折をありのままに記すことで、みなさんの励ましになれるかもしれないと考え、不肖ながら紹介致します。

 

 長い記事を読むのは面倒、自分語りに興味はないという方に概説しますと、以下のようになります。

  • 高校時代、過敏性腸症候群パニック障害になり、大学受験断念
  • 通信制大学で勉強しながら病気を治そうと思ったが、症状は悪化
  • 辛くも某大学に編入できたが、就職できず24歳で大学卒業。しかしこの時から症状が徐々に良くなってくる。また彼女ができる
  • 既卒で就職活動を続け、25歳で某業界世界第二位の外資系企業に就職。パニック障害はほぼ完治
  • 会社ではわずか3ヶ月で昇進。しかし、歯車のようにガリガリ働くことに共感できず、退職
  • 少年時代から抱いていた「貧困をなくす」という願いと、青年時代に気付いた「祖国」を再建するという志のもとに、26歳にして世界放浪を決意。明日出発(今ここ)。

 

 上の概略だけで十分な気もしますが、もうちょっと細かい経緯を知りたいな、と思ってくださった方は、本編をぜひ。

 

少年時代

 今まで、悲しい状況に陥ったことが2回だけある。

 ひとつ、6歳のとき両親が離婚したこと。今でこそ既婚者の3人に1人が離婚されているが、当時はまだシングルマザーは珍しかった。父は幾ばくかの借金を残し、ぼくと弟は母に育てられた。

 マイノリティーだったからこそ、貧しいなかで育ったからこそ、将来は弁護士になり困っている人を助けたいと思った。と言っても、子供の考えだから「弁護士はかっこいい」という単純な動機もあった。しかし、なぜか弁護士になってお金をたくさん稼ごうとは思わなかった。それは貧しいながらも、楽しい生活を送っていたからだと思う。

 この考えが、今もぼくの根っこのひとつとなっている。

高校時代ー絶望の始まりー

  時は流れ、10年後。17歳のぼくは、高校生活を存分に楽しんでいた。

 毎日友だちの家に泊まり、遊び、学校に行く。しかし、成績はトップクラス。弁護士になるために、学校の勉強をしっかりこなしていた。バンドやバイトもこなし、少林寺拳法やサッカーもやっていた(ちなみに、この時はまだじいを知らなかったので、これだけ活動できたのだと思う)。

 だが高校二年のある秋の日、状況は一変した。過敏性腸症候群パニック障害なるものを発症したのだ。

 授業中、突然、「おならは出ないか」「おなかは痛くならないか」など急に気になりだし、それで頭がいっぱいになる。体が強張ってくる。

 当時は過敏性腸症候群パニック障害という名前は知らなかった。こんなかっこ悪い病気を認めたくなくて、ネットで調べもせず、またお医者さんに打ち明けるのも恥ずかしくて、病院にもいかなかったからだ。

 自分なりに考えたのは、精神的な不安が胃や腸、体に異変をもたらしているのだろうということだった。だから、胃腸の活動を抑制しようと食事を控えたり、整腸剤を飲んだり、病気のことを忘れようと努めた。

 しかし、まったく無駄だった。不安が不安を呼ぶことで、症状は悪化し、遅刻や早退、欠席を繰り返すようになった。

 特に恐怖なのが、試験だった。通常、試験への恐怖と言えば良い点数がとれないことだろう。しかし、僕の場合は違った。試験という「静かで逃げられない空間」で症状が表れないか、それのみを恐れていた。その結果、試験に集中できるはずもなく、成績は下降していった。

 唯一の救いは、友だちだった。この時はまだ、友だちと遊んでいるときは症状が発生せず、友だちと遊ぶことでなんとか精神の安定を保っていた。

 友だちがいたおかげで、早退や欠席は多かったが退学することなく、無事に卒業できた。本当に感謝している。

 こういった救いがあるなかで、なんとか授業や試験の恐怖に耐え、高校3年になった。

 しかし、待っていたのは最大の恐怖、大学受験だった。

 

 その2へ続きます。長くてごめんなさい。